読書感想文001:『リア充にもオタクにもなれない俺の青春』(弘前龍)


公式の略称は『リアオタ』なのだろうが、あえて『にもにも』と呼ばせて頂く。

本作は最初から最後まで非常に多くのパロディ要素が散りばめられており、
中にはブラックなものもあるのだけれど、そこにばかり反応すべきではないと思う。
それは表面的なものであって、本質ではないからだ。

ラノベスクールカーストものは上下格差の問題を主に描かれるのだが、
本作で描かれるのは温度差の問題である(温度差などという表現は作中で使われていないのだが、便宜上ここでは使わせてもらう)。

 

ここで言う温度差とは、他人と交流した時に感じる違和感の事である。

自分と相手は違う。共感できない。そう思えば思うほど、温度差は大きくなっていく。

常に違和感が付きまとう状態での生活。その苦痛は耐え難いものだ。

リア充集団の中にいてもオタク集団の中にいても、主人公はその温度差に苦しめられる。
そしてそれはアイデンティティの問題にも関わってくる。

自分を自分たらしめているものは何か?
所属する集団が自分のなんたるかを表してくれるのならば、リア充でもオタクでもない自分はいったい何者なのだろうか?

主人公は常にアイデンティティの危機にさらされていると言える。これが幸せであるわけがない。
主人公以外はどうだろうか。
作中のオタクが「作品を好きというより作品を好きな自分を好き」なのは、
「○○を好きな自分」を作る事でアイデンティティを獲得しようとしているからである。

作中の某キャラが「みんなの役に立っている自分」を維持し続けるのも同じ。
そして自己の確立の過程で何かを排除しようとするのはよくある事であり、
作中のオタクが特定の作品や人物を排斥するのはまさにそれである。

彼らはそれによって「正しいオタクである自分」を獲得できる(もしくは獲得したような気分になる)のだ。
これは、ある宗教の信者が異教徒を迫害する事で「誠実で敬虔な信者である自分」を獲得したような気分になるのとよく似ている。同調圧力などはまさに宗教的だ。

全員、自己の確立に必死になっている。
青春ものと言えばだいたい恋愛要素がすぐ頭に浮かぶものだが、
思春期におけるアイデンティティ獲得の苦悩もまた青春要素の一つであり、
やはりこの作品は青春ものであると言える(つまりタイトル詐欺ではない、という事)。

そしてさらに温度差は孤独感をも生み出す。
孤独感に苛まれるのは、誰もそばにいてくれない時だけではない。
誰かと一緒にいても共感し合えなければ孤独感は生じてしまうものなのだ。
本作は境界線上に立つ人間の生きづらさをこれでもかと描いている。

本作におけるオタクはリア充から見下される存在ではなく、
リア充-オタク間の上下格差」は存在しない。
だが、二つの集団それぞれの内部には格差カーストが存在し、
それによって生じる問題が主人公に降りかかってくる。

スクールカーストものが原初から内包していた「温度差」という要素を、
リア充-オタク間の上下格差」という要素を廃する事で思いっきり強調したのが本作。
だから本作は従来のタイプのスクールカーストものではないのだけれど、スクールカーストものと密接な関係にあると言える。

そして終盤、主人公が目の前の大きな問題に対して、
今まで自身を苦しめてきた「温度差」を逆に利用する事で打ち破る展開は非常に上手いと思った。
「温度差」に敏感な主人公は、他人の感じている「温度差」を容易に想像できる。
それが非常に強力な武器となるのだ。

このポストスクールカーストものと呼ぶべき本作は、
スクールカーストものに飽きた読者(私はまだ飽きていないのだが)に対するお薬のような作品でもあり、
弘前龍先生はもう次のステージに足を踏み入れているんだなあ……と読んでいて感心させられた。

物語として非常に面白いのだが、面白さ云々よりも、この作品を世に送り出した事自体に大きな意味がある、と私は考える。
もしも私がプロの小説家ならば、この事態に危機感を抱くだろう。
「果たして私は『にもにも』と同等かそれを超える次世代型のスクールカーストものを書けるだろうか?」と苦悩するはずだ。

本作が発売された事でもはや環境が『にもにも以後』へと変わってしまった(私はこれを『にもにもショック』と呼んでいる)わけで、
これから先、どんな次世代型のスクールカーストものが誕生するのか実に楽しみである。

 


ところで評論家ぶって感想書くような人はオタクの枠に入りますか? 入っていいですか?